“ある日、一八八九年一月のこと、トリノの静かな街路で、ニーチェは御者が馬をひどい目に合わせているのを見ました。ニーチェは古い憤りと悲しみに圧倒され、馬と御者の間に飛び込み、馬に抱きついて激しく泣きます。けれど、はるか以前から殴られた子どもの感情を自分の内に押し込め、抑圧せねばならなかったこの人は、今になって突然自分に襲いかかってくる感情を扱い切れませんでした。助けが必要だったのですが、誰も助けてはくれませんでした。ところが、ここで襲いかかってきた感情は、もはやそれまでのように抑圧できないのです。知性の迷路は感情の洪水に沈みました。けれど、その知性に代わるものは何もなく、彼を助けて自分の感情を理解できるようにしてくれる人もいませんでした。ニーチェは、かつてのいじめ抜かれた子どもを悼んで悲しみ、トリノの馬の中にその子どもをみて、それを救おうとしたのですが。そこには、知性と感情が出会う、橋渡しの場が全くなかったのです。そのためにニーチェは正気を失い、その後十一年もの間、完全に人に依存して生きつづけました。最初は母に、それから妹に。”(『沈黙の壁を打ち砕く-子どもの魂を殺さないために-』アリス・ミラー 著、山下公子 訳、新曜社)
“ある日、一八八九年一月のこと、トリノの静かな街路で、ニーチェは御者が馬をひどい目に合わせているのを見ました。ニーチェは古い憤りと悲しみに圧倒され、馬と御者の間に飛び込み、馬に抱きついて激しく泣きます。けれど、はるか以前から殴られた子どもの感情を自分の内に押し込め、抑圧せねばならなかったこの人は、今になって突然自分に襲いかかってくる感情を扱い切れませんでした。助けが必要だったのですが、誰も助けてはくれませんでした。ところが、ここで襲いかかってきた感情は、もはやそれまでのように抑圧できないのです。知性の迷路は感情の洪水に沈みました。けれど、その知性に代わるものは何もなく、彼を助けて自分の感情を理解できるようにしてくれる人もいませんでした。ニーチェは、かつてのいじめ抜かれた子どもを悼んで悲しみ、トリノの馬の中にその子どもをみて、それを救おうとしたのですが。そこには、知性と感情が出会う、橋渡しの場が全くなかったのです。そのためにニーチェは正気を失い、その後十一年もの間、完全に人に依存して生きつづけました。最初は母に、それから妹に。”
(『沈黙の壁を打ち砕く-子どもの魂を殺さないために-』アリス・ミラー 著、山下公子 訳、新曜社)