『〈責任〉の生成━━中動態と当事者研究』 國分功一郎 熊谷晋一郎、新曜社という本のまえがきで國分功一郎はこう書いている“ 自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事にうまく応答できないとき、人は苦しさを感じる。それが常態化すれば苦しさは堪え難いものになる。なぜならば、うまく応答できないままでいることは、人間の複数性にうまく参加できていないことを意味するからである。複数性に参加できていないとき、その人は相手にされなくなる。相手にされないとは、周囲の者たちから、応答するべき相手と見なされないということ、自分たちに似通った、同等の者と見なされないということである。 そのときそこに現れているのは、応答のない、ただの反応に満たされた空間であろう。自分以外の他なるものが自分のために責任を果たしてくれることも、自分が自分以外の他なるものに責任を果たすこともない。「責任」はしばしば重苦しくて、できれば避けたい義務という語感を持っている。しかし、責任が消失した空間を想像してみると、それはなんとつらく苦しいものだろうか。”
『〈責任〉の生成━━中動態と当事者研究』 國分功一郎 熊谷晋一郎、新曜社
という本のまえがきで國分功一郎はこう書いている
“ 自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事にうまく応答できないとき、人は苦しさを感じる。それが常態化すれば苦しさは堪え難いものになる。なぜならば、うまく応答できないままでいることは、人間の複数性にうまく参加できていないことを意味するからである。複数性に参加できていないとき、その人は相手にされなくなる。相手にされないとは、周囲の者たちから、応答するべき相手と見なされないということ、自分たちに似通った、同等の者と見なされないということである。
そのときそこに現れているのは、応答のない、ただの反応に満たされた空間であろう。自分以外の他なるものが自分のために責任を果たしてくれることも、自分が自分以外の他なるものに責任を果たすこともない。「責任」はしばしば重苦しくて、できれば避けたい義務という語感を持っている。しかし、責任が消失した空間を想像してみると、それはなんとつらく苦しいものだろうか。”